さあ、シーチャン島の釣りから一日明けて、さあ昨日のそうそう滅多に起きないハプニングをブログにどう書いてやろうかと意気込んでいたが、2日分ほど釣りに行っていたために更新遅れを処理しないといけない。

ブログのエントリはネタさえあれば文章自体はわりとすぐ書けるもんだ。1日1回更新にしてから日常生活の中でも常にネタ探ししながら生きているのであまりネタは枯渇しない。しかし文章ができていても実際にブログに載せるまでネットで若干の裏付けをしたり、詳細のデータを探したりしてその後の文章修正とリンクの埋め込みなどが以外と時間がかかる。そんなことを休みの時間を使ってグダグダやってるうちにいろいろ考えてしまった。。。。。

35歳にして初めて目の前にした水死体。今までは葬式の棺桶の中に横たわっている奇麗に死化粧をした死体しか見た事がない。この年にしていきなり日常生活の中に現れた死体。生活の中のエピソードとしては最高の展開でたまらなく嬉しかった。撮った写真をしげしげと眺める。一緒に釣りに行った女の子は死体を一目見た後、目を背けて怖くて見れないと言っていた。そんな大げさなと思っていたが、冷静になりつつもその恐怖感というのは感覚的に理解ができる。でもすでに生命が途絶えた肉体。僕らがその直前まで目にしていた腹を向けて海に浮かぶ死んだ魚と変わらないはずだ。でも一緒ではない。その恐怖はどこから来るのか?

死体がグロくて怖い?我々日常からグロいものはいくらでも見ている。ミミズを見つけてスコップで真っ二つに切断したり、市場の豚肉屋でぶら下がっている豚足や頭部をマジマジ眺めたりしている。もっと言えばはっきり言ってアジの開きなんかもっとグロい。頭まで真っ二つに開いてしまっている。それを内側から眺めながらおいしく食べるんだから人間は残酷。

でも人間の死体に感じる恐怖、「触ったらガバーッと起き上がって腕掴まれるかもね」みたいなことを言ってるとキャーと怖がる。死体に魂がまだこもってるかもしれない?まだ生きてるかも?あの姿で動き出すと怖い?

人間の死体に感じる恐怖、これは自分自身の死への恐怖じゃないだろうか?どんな人間も死を体験することはできない。それこそ死んだら最後。何も残らない。灰となり、大地に、海に戻る。死を体験して戻って来た人間はいない。人間の最大の謎は死だ。死への過程、死の瞬間、どんな事が待ち構えているのだろうか?これだけヒトが知能を発達させて、紙を、印刷を、電話を、テレビを、インターネットを発達させて、個人の経験を伝え、体系立て、学問が出来、経験をしなくても多くのことを学べるようになったこの時代でさえ、死の体験は未だに誰からも誰にも伝えられていない。

今まで築いて来た家庭、社会での地位、資産、過去の思い出、何も死の向こうへ持って行く事はできない。すべてがそこで終わってしまう。今まで何十年の人生をかけて築いたものをリセットされる恐怖。

その恐怖がただの肉塊となっている死体に向けられるのではないか?本当は元気に海を泳いでいたり、道を闊歩するはずの人間という肉体がぴくりとも動かず物と化す。この人はどんな状態で死んだのだろう?溺死する瞬間どんな苦痛が待っているのか?死に引きずり込まれる瞬間、意識が遠のくその瞬間、生への世界への執着ともどかしさはいかほどか、生きてる人間は無意識に自分を投影してその無念さを計る。これがもし自分だったらどれほど。。。

そこにあるのは自分の死体。

結局は他人の死を見て自分の死への恐怖を再確認しているだけなんだな。幽霊もしかり、自分がまだやりたいことを実現できていないもどかしさを大きく抱えた状態で死を目にするとその自分のもどかしさを元に死者の思いを夢想し、死んでもなお起き上がるという姿をイメージする。

というようなことをぼんやりと考えながら、もやもやとする自分の気持ちを封じ込めておりました。さて寝るか。